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 2015年3月27日(金)

  『この日何の日、気になる日 第53回』

大相撲春場所も終わり、桜の開花宣言!

気がつけばスッカリ春です!

花粉症や居眠りに気をつけて、今週も『この日何の日…』いってみましょう!

1988年(昭和63年)3月27日は、全日本プロレス日本武道館大会で、ブルーザー・ブロディがジャンボ鶴田を破り、インターナショナル・ヘビー級王座を奪取した日なのです。

力道山の時代から受け継がれる、日本の至宝インターナショナル・ヘビー級王座。
昭和56年に全日本プロレスで復活してからは、ジャイアント馬場でも鶴田でもなく、ブロディの腰に長く巻かれていたこのベルト。

しかし昭和60年にブロディが新日本プロレスに移籍した後は、全日本のエース・鶴田のもとに落ち着いてしまうのです。

だが前年秋にブロディは全日本プロレスに電撃復帰、当然狙いは団体トップを意味するインター王座。

不充分であった鶴田との決着戦を待ちわびたものです。

そしてこの日ブロディは、鶴田を破り王者へ返り咲くのですが、勝った後のブロディはいつもの狂暴さはなく、喜びのあまり涙を見せ、控え室に戻る花道ではファンと抱き合ったりもしたのです。

そんなブロディの行動が、とても気になります…

愛着のあるインターのベルトを、復帰後すぐに取り戻せたからなのか。

それとも、十数度闘っても完全決着がつかなかった鶴田を、ピンフォールで破ったからなのか。

一度全日本を捨て新日本に行ったまでは良かったが、トラブルを起こし新日本を追われ、日本での戦いの場を失ったブロディ。

その絶望的と思われていた全日本マットに復帰を許され、尚且つインター王座まで手に入れた幸せ。

自分を応援してくれるファンの温かさ、ブロディは全日本プロレスこそ安住の地と、この時感じたからこその涙だったのかも知れません。

イエス・キリストに似た風貌で、プロレス界では神のような存在のブロディ。

そんな神が喜び涙し抱き合うとは…

やっぱりブロディは神ではなく、人間だったんですね。

そこで、最後に一言!

『神と獣は、紙一重』

また、来週!

 2015年3月20日(金)

  『この日何の日、気になる日 第52回』

春ですねぇ…

そろそろお花見なんかが気になりますね。

マサルはお花見の経験がないので、なおさら気になります。

気になるついでに、今週も『この日何の日…』いってみましょう!

1987年(昭和62年)3月20日 は、新日本プロレス後楽園ホール大会で、若手の登竜門「ヤング・ライオン杯」決勝が蝶野正洋と橋本真也で行われた日なのです。

結果は蝶野が優勝し、海外武者修行のチケットを手に入れました。

蝶野と橋本は、共に昭和59年デビューの同期生。

その二人と同じく同期の武藤敬司は、ヤング・ライオン杯優勝なしに一足先に海外へ出発。

センス、ルックスの優れた武藤は、会社に将来のエースとこの頃から期待されていたのがよく分かります。

蝶野と橋本は同期として、悔しかったに違いありません。

自分たちの一歩も二歩も先を行く武藤に追い付くには、この日の優勝は譲れません。

というより何がなんでも優勝しなければ、この先ずっと武藤より格下扱いを受けなければなりません。

同じ同期生であるのに格下とは、どんなことよりも屈辱でしょう。

同期で仲が良ければなおのこと、絶対に負けたくないものです。

この日蝶野は橋本に勝ったと同時に武藤に近づいたと喜び、橋本は同期二人に負けてしまったと涙を流したかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『今週は、気になることが、なかったか』

また、来週!

 2015年3月13日(金)

  『この日何の日、気になる日 第51回』

♪もうすぐ、はーるですね♪恋をしてみませんか♪

と下手な歌から始まる今週の『この日何の日…』

1991年(平成3年)3月13日は、SWSと新UWF藤原組が業務提携を発表した日なのです。

新UWF藤原組とは、解散したUWFの中から藤原喜明を中心に船木誠勝、鈴木みのるらで結成された新団体。

2月上旬に設立発表し3月4日に旗揚げ戦を行うなど、迅速な動きを見せる藤原組。

そして、この日の業務提携と、中々そつのない藤原組長。

しかしなぜ、SWSと業務提携したのでしょうか。

とても気になります…

なぜならば、UWFの内部分裂、解散の原因のひとつにSWSとの業務提携があったと噂されていたからです。

ファイト・スタイル的には交われないUWFとSWS。

営業面で苦戦しているSWSは、人気団体のUWFの力は必要であり、UWFフロントにしても資金豊富なSWSとならば、業務提携は願ったり叶ったりということなのでしょう。

しかし、UWFのレスラーの反発にあい、この話しはご破算になったというのが噂の真相。

それなのに、藤原組は旗揚げ早々にSWSと手を結ぶとは。

もしかすると、UWF解散の段階で、既に藤原組長とSWSは出来上がっていたのかも知れませんね。

逆に言えば、SWSの援助があり藤原組は設立したとも考えられますね。

とりあえず団体設立という見切り発車ではなく、予めスポンサーを確保しておくなんて、組長も意外と堅実なんですね。

顔に似合わず。

そこで、最後に一言!

『堅いのは、頭だけでは、なかったか』

また、来週!

 2015年3月6日(金)

  『この日何の日、気になる日 第50回』

皆さま、3月に突入しましたね。

大相撲大阪場所が楽しみですね。

と相撲の話しは、おおひめ女史に任せて、今週も『この日何の日…』いってみましょう!

1984年(昭和59年)3月6日は、全日本プロレスの越中詩郎と三沢光晴がメキシコ遠征に出発した日なのです。
昭和54年デビューの越中と56年デビューの三沢は、前座を沸かせる若手有望株。

そんな二人は期待通り、前年4月に若手主体で開催されたルー・テーズ杯争奪リーグ戦で優勝を争います。

優勝者には海外武者修行のキップが贈られる予定でしたが、好勝負を演じた二人にプレゼントされることになったのです。

海外で経験を積むことが、メインエベンターへの登竜門であるプロレス界。

越中と三沢も将来のエース候補として、メキシコへ修行に出たのでしょうね。

がしかし、なぜメキシコなのでしょうか?

とても気になります…

全日本プロレスといえば、ジャイアント馬場を筆頭にジャンボ鶴田や天龍源一郎などのヘビー級がズラリと顔揃え、ファイト・スタイルもアメリカン・プロレスを意識した正統派プロレス。

軽量級の選手が空中殺法を駆使するメキシコとは毛色が違い、何だか二人の行き先が違うように思われます。

確かに越中も三沢も小柄ではありますが、体重さえ増えれば身長的には問題なくヘビー級になる体格。

そんな二人をジュニア大国メキシコに送り込んだ馬場の真意とは?

新日本プロレスに遅れをとったジュニア戦線の強化のためか、もしくは馬場や鶴田クラスの大きさでなければ、ヘビー級として認めないからなのか。

もしかすると、どちらかを二代目タイガーマスクにするための、メキシコ行きだったのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『全日に、タイガーマスクは、必要か?』

また、来週!

 2015年2月27日(金)

  『この日何の日、気になる日 第49回』

皆さま、寒かったり暖かかったりしますが、体調はいかがですか?

2月も明日で終わり、楽しい春が待ち遠しいですね。

とまあ能書きは置いといて…今週も『この日何の日…』いってみましょう!

1980年(昭和55年)2月27日 は、新日本プロレス蔵前国技館大会で、アントニオ猪木が極真空手のウィリー・ウィリアムスと格闘技世界ヘビー級戦で対決した日なのです。

猪木がプロレスこそ格闘技最強と唱え、昭和51年のウイリエム・ルスカから始まった格闘技世界一決定戦。

これまで引き分けこそあるものの、無敗の猪木に挑戦状を叩きつけたウィリー。

最強のプロレスラーと熊殺しの異名を持つ極真会館ナンバーワンの対戦は、ファンやマスコミの興味をひくものでした。

しかし、極真会館は他流試合を禁ずるという、最大の問題が発覚。

ウィリーは猪木と闘うならば、極真会館を辞めなければならないのです。

結果ウィリーは極真会館を破門、この日の決戦に挑むのです。

空手界では超大物のウィリーが、破門を受けてまで猪木戦を何故強行したのでしょう。

とても気になります…

スタートから4年たった異種格闘技戦は、ルスカやモハメド・アリ、ザ・モンスターマンとの闘いほど盛り上がる対戦相手が現れませんでした。

そもそも、アリとの対戦のため企画された異種格闘技戦こと格闘技世界一決定戦。

目的達成後も人気に火がつき、続けていた格闘技世界一戦でしたが、格下相手の消化試合ならばシラケるのは当たり前。

アンドレ・ザ・ジャイアントやスタン・ハンセンという、強豪外人とのプロレスの方が観客は沸き上がります。

そこで、格闘技世界一決定戦に終止符を打つにあたり、誰もが見たがる超大物としてウィリーの名が挙がっと思われます。

言ってしまえば猪木に有終の美を飾らせるようなもの、破門されてまで闘うにはリスクは大き過ぎます。

何より空手を愛していたウィリー本人も、本当は極真会館に残りたかったでしょう。

しかし、自分が破門され猪木と闘うことで極真会館の株も上がり、ウィリーの格闘家としての名も上がるのならばと、泣く泣く了承したのかも知れませんね。

最後の格闘技世界一決定戦と唱われたこの一戦、延長戦をしたにもかかわらず両者ドクター・ストップによる引き分け。

新日本プロレス、極真会館のセコンド陣が入り乱れるなど、結果も合わせて何とも後味が悪かったなぁ。

そこで、最後に一言!

『どうせなら、熊対猪木、見てみたい』

また、来週!

 2015年2月20日(金)

  『この日何の日、気になる日 第48回』

皆さま、こんにちは。

抜糸も済み、術後良好のマサルです。

お腹の傷口が痒くてたまりませんが、今週も『この日何の日…』いってみましょう!

1999年(平成11年)2月20日は、全日本プロレスのジャンボ鶴田が現役引退と取締役辞任を発表した日なのです。

ミュンヘンオリンピック、アマレス日本代表の肩書きをひっさげ、旗揚げ間もない全日本プロレスに入団した鶴田。

デビューからジャイアント馬場に次ぐレスラーとして活躍し、馬場がメインから退いた後は完全無欠のエースに君臨。

チャンピオン・カーニバルや世界最強タッグ優勝、日本人初のAWA世界王者や初代三冠統一ヘビー級王者など、戦歴は輝かしいものばかり。

しかし、平成4年に内臓疾患により入院欠場してから、メインに顔を出すことはなくなってしまうのです。

超世代軍や強豪外人の壁になり、全日本プロレスで無敵を誇った鶴田でしたが、病には勝てなかったようです。

治療をしながらも、時々リングに上がっていた鶴田でしたが、この年師匠である馬場の死をきっかけに現役引退、治療に専念する気になったのかも知れません。

しかしなぜ、取締役までも辞任したのでしょうか。

とても気になります。

体調不良によるレスラー引退は分かりますが、団体の役員として馬場亡きあとの全日本プロレスを支えることは出来なかったのでしょうか?

マット界イチの常識人であり業界の紳士の鶴田ならば、団体を任せても問題はないはず。

それなのに、団体を去る決断をした鶴田。

もしかしたら、鶴田の身体は、団体運営という激務をこなせないぐらい悪化していたのかも知れません。

そしてなにより、プロレス人としてリングに上がれないならば、潔くプロレス界に別れを告げることを選んだのでしょう。

日本人最強、世界に通じる日本人レスラー、怪物などと呼ばれた男の、少し寂しい去り際でしたね。

そこで最後に一言!

『怪物も、勝てぬは、病だけなのか』

また、来週!

 2015年2月13日(金)

  『この日何の日、気になる日 第47回』

皆さま、ご心配おかけしましたが、今週より復帰いたしますマサルです。

今後とも、何卒宜しくお願いします。

では、復帰第一戦の『この日何の日…』いってみましょう!

1974年(昭和49年)2月13日は、国際プロレスのエース、ストロング小林が突如フリー宣言。

あわせて、ジャイアント馬場とアントニオ猪木に挑戦を表明した日なのです。

小林といえば、IWA王座連続防衛記録をつくるなど、怪力自慢の国際プロレスの大エース。

団体のエースの退団など、とても考えれないプロレス界。

そんな団体の大黒柱が、なぜフリー宣言!

なぜ退団なのか!

とても気になります。

当時の日本に存在するプロレス団体は、馬場の全日本プロレスと猪木の新日本プロレス、それと小林が所属する国際プロレスの3団体。

人気レスラーの馬場と猪木に比べ、小林は言っちゃ悪いが格下に見られがち。

ということは、小林がエースを務める国際プロレスは、マイナー視されても仕方なし。

いくらヨーロッパの強豪をリングに上げようが、小林が防衛記録をつくろうが、馬場と猪木に人気で勝てないのが現実。

小林はどんなに頑張っても客足は延びず、本人も団体も格下に見られることに悩んだに違いありません。

それならば、馬場と猪木を倒し、小林は強いんだ!国際プロレスは素晴らしい団体だということを、世間に知らしめたかったのでしょう。

がしかし、団体の垣根を越えての対抗戦には、いくつものハードルがあるのですね。

テレビの放映権やら興行権、何よりも負けて団体のランクが落ちてしまえば個人の問題だけではなくなってしまうのです。

その辺りを考えた結果が、ストロング小林というレスラー個人の闘い、つまり何のしがらみのないフリー選手としての挑戦に至ったのかも知れませんね。

助けてくれる人はいない、頼れるものは己だけのたった1人の挑戦!

う~ん、泣けてきますね

そこで最後に一言!

『プロレスは、馬場と猪木だけじゃない』

また、来週!

 2015年1月30日(金)

  『この日何の日、気になる日 第46回』

皆さま、1週間のご無沙汰です。

とても寒い日が続いてますが、インフルエンザやノロウィルスに、やられていませんか?

そんな病気や寒さを吹き飛ばす、『この日何の日…』いってみましょう!

1992年(平成4年)1月30日は、新日本プロレス大田区大会で小林邦昭と誠心会館の齋藤彰俊が、異種格闘技戦を行った日なのです。

この試合は全試合終了後に組まれた番外マッチ。

あくまでも、新日本プロレスの興行ではない遺恨試合を強調するようでした。

結果は齋藤のTKO勝ちをおさめ、これを機に新日本プロレスと誠心会館の抗争が勃発、両軍団とも退くに退けない状態になってしまいました。

しかしなぜ、空手道場の誠心会館がプロレス団体に喧嘩を売ることになったのでしょうか?

とても気になります…

そもそもは、誠心会館の青柳館長に同行していた若手が、小林とトラブルを起こし両者が対立。

その後、誠心会館の若手たちは決着を求め新日本マットに上がるも惨敗し、実力ナンバーワン門下生である齋藤が登場することになったのですね。

しかしこの齋藤、直接の原因が自分ではないのに死闘を演じ続けるとは、よほど空手や道場に愛着があったのか。

それとも、尊敬する師匠、青柳政司を守るためだったのか。

いやいや、実は齋藤はプロレスが大好きで、プロレスラーになりたかったのかも知れませんね。

言い方は悪いが、トラブルだろうが何だろうが、プロレスが出来るのであれば利用する。

結果はリングで見せれば良い、勝てば官軍なんですね。

現在の齋藤を見る限り、そう思われても仕方ないか。

そこで最後に一言!

『空手家も、リング上がれば、プロレスラー』

また、来週!

 2015年1月23日(金)

  『この日何の日、気になる日 第45回』

大相撲初場所も千秋楽を目前に気になるところですが、それはまあ置いといて…
今週も『この日何の日…』お楽しみくださいませ。

1990年(平成2年)1月23日は、全日本プロレスのジャイアント馬場が新日本プロレス2月10日東京ドーム大会に、全日本の選手出場を発表した日なのです。

全日本と新日本、ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、興行戦争や選手の引き抜きなどで犬猿の仲。

その両団体が、なぜこうもアッサリ手を結んだのでしょうか?

とても気になります。

実はこのドームの目玉となっていたのは、NWA世界王者のリック・フレアー。

その王者フレアーにグレート・ムタが挑戦するという、まさにアメリカでしか観れないドリーム・マッチ。

それが大会直前で何とフレアーの来日キャンセル!

急なカード変更、しかもメインカード変更に慌てた新日本フロント陣。

そこで動いたのは、昨年社長に就任したばかりの坂口征二。

坂口社長は全日本の馬場社長に頼みこみ、全日本の選手出場という協力体制にもちこんだのです。

馬場も「坂口の社長就任祝い」ということで、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、タイガーマスク、スタン・ハンセンを送り出す大盤振る舞い。

「ベルリンの壁は崩れた」と名言まで飛び出し、これからの友好関係を誰もが期待したものです。

可愛い後輩の坂口が、社長になったからこそ実現した両団体の和解。

馬場と坂口がこんなにも固い絆で結ばれていたとは、何とも意外でした。

実はこの日誕生日の馬場。

本来ならばプレゼントをもらう立場でありながら逆にプレゼントを贈るとは、やっぱり馬場は心もジャイアントなんですね。

そこで最後に一言!

『猪木には、崩せなかった、馬場の壁』

また、来週!

 2015年1月16日(金)

  『この日何の日、気になる日 第44回』

皆さま、こんにちは
お正月ボケの抜けないマサルです。

いつまでも、正月気分のまま過ごしたいものですね(笑)

な~んてことは、さておき
今週も『この日何の日…』おっ始めましょう!

1993年(平5成年)1月16日は、プロフェッショナル・レスリング藤原組の、後楽園ホール大会が行われた日なのです。

たったそれだけ?
それが何か?と思うなかれ

実は約1ヶ月前に、船木誠勝や鈴木みのるら主力レスラーが退団したため、この日の興行は藤原喜明と石川雄規の日本人選手2人で決行したのですね。

日本人選手2人とただでさえ苦しい状況であり、事実上のエースであり人気レスラーの船木と鈴木を欠いた興行など無謀。

新日本プロレス時代から、固い師弟の絆で結ばれた藤原、船木、鈴木の3人がなぜ、離れ離れになってしまったのか、とても気になります。

第二次UWF解散後に旗揚げされた藤原組。

前田日明や高田延彦ではなく、藤原を選んだ船木と鈴木。

この3人を中心に、UWFスタイルに拘らない藤原流のプロレスでの団体の発展を誰もが望んでいたはず。

それなのに、あぁそれなのに、藤原はなぜ孤立したのでしょうか。

もしかすると、船木や鈴木は、今まで通りの格闘技色の強いスタイルを望んでいたのかも知れません。

対戦相手や団体によってスタイルを変え、時にはユーモラスな試合もこなす藤原。

当然、藤原組での興行では船木と鈴木にとって不本意なカードがあったに違いありません。

従来のプロレスを離れスポーツライクなプロレス、アスリートとしての格闘家を目指した結果がこうなってしまったのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『弟子たちの、自由を奪わぬ、親心』

また、来週!

 2015年1月9日(金)

  『この日何の日、気になる日 第43回』

皆さま、明けましておめでとうございます。

本年も『みのもけんじのプロレスで哭け!!』ならびに『この日何の日、気になる日 』を宜しくお願いします。

と、新年のご挨拶はほどほどに、今年一発目の『この日何の日…』いってみよっ!

1970年(昭和45年)1月9日は、国際プロレスの豊登が引退を発表した日なのです。

オールドファンの中には、豊登が引退したのは国際プロレスだっけ?日本プロレスじゃないの?と思う方々もいらっしゃるでしょう。

それより豊登を知らない方もいるに違いないので、一旦整理しましょう。

立浪部屋所属の大相撲力士であった豊登は、廃業後に力道山の日本プロレスに入門。

怪力を活かし人気レスラーとなり、力道山亡き後は社長兼エースとして活躍。

しかし、ギャンブルによる金銭面のルーズさを指摘され、ジャイアント馬場の台頭もあり社長辞任とレスラー休養を発表。

ここでまず、引退したと思う方もいるでしょうが、後に日本プロレスから除名され新団体・東京プロレスをアントニオ猪木と旗揚げしレスラー復帰。

東京プロレスでも豊登は、相変わらずの金銭面でのだらしなさを発揮、猪木と喧嘩別れしてしまい東京プロレスは崩壊します。

猪木は日本プロレスに復帰し、豊登は合同興行をした旗揚げ間もない国際プロレスへと移籍し、数年後のこの日引退発表となったのですね。

しかしこの豊登、リング上での活躍とは裏腹に、お金での失敗を何度も繰り返すのか、気になって仕方ありません。

一攫千金!と一瞬で大金を手にするギャンブルは魅力的ですが、勝てば天国!負ければ地獄!まさに一か八かの大勝負!

そうギャンブルも勝負事、プロレスも勝負事なんですね。

大相撲からプロレスに移り、一貫して勝負の世界で生きてきた豊登。

いや、勝負の世界しか知らなかった豊登には、ギャンブルも大切な人生の一部だったのでしょう。

プロレスも大事だがギャンブルも当然大事。

しかし、後輩の馬場に人気を抜かれた時には、プロレスへの情熱が失せてギャンブルにのめり込んでしまったのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『ギャンブルは、ほどほどぐらいが、丁度イイ』

また、来週!

 

 

 

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