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 2014年12月26日(金)

  『この日何の日、気になる日 第42回』

もう幾つ寝るとお正月♪

皆さま今年最後の『この日何の日…』お楽しみくださいませ。

では1990年(平成2年)12月26日は、新日本プロレス浜松大会で藤波辰爾が長州力を破り、第9代IWGP王者に返り咲いた日なのです。

前年7月から腰の負傷のため長期欠場していた藤波。

この年10月に復帰したのですが、まだまだ本調子ではない状態でした。

それなのに、復帰からたった2ヶ月あまりで団体の看板タイトルに挑戦するとは、ただただ驚くばかりでした。

結果として回転足折り固めで勝利はしたものの、腰を庇いながらの不完全なピンフォールでは、説得力はありませんでした。

なぜ藤波はIWGP王座挑戦を、そんなに急いだのでしょうか?

もう少し時間をかけて、万全なコンディションで挑まなかったのか、とても気になります。

藤波が欠場中に、闘魂三銃士の台頭や全日本プロレスとの対抗戦、新団体SWSの旗揚げなどがあり、負傷欠場中の藤波の存在は確かに薄くなっていました。

それに加え、翌年3月の東京ドーム大会でのNWA世界王座挑戦も決定し、藤波の焦りは募るばかり。

リック・フレアーとの世界戦で完全復活と誰もが考える中、藤波は挑戦者ではなくIWGP王者として、フレアーと同じ王者同士のダブル・タイトルマッチを計画。

世間にこれだけドでかいアドバルーンをぶち揚げれば、ファンやマスコミの目は当然藤波に向けられます。

一時はマット界から忘れられた存在からの、逆転ホームランを狙った藤波。

自分自身でチャンスを作り、そしてそのチャンスをものにする。

もしこのチャンスを逃していたら、世界王座挑戦も他の選手に取られていたかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『人生の、チャンスは自分で、つくるもの』

それでは皆さま良いお年を!

 2014年12月19日(金)

  『この日何の日、気になる日 第41回』

皆さま、寒い日が続きますが、風邪などひいてないですか?

寒い夜は、温かい鍋物で一杯やりたいものですね。

さてマサルの能書きは置いといて、今週も『この日何の日…』いってみましょう!

1972年(昭和47年)12月19日は、全日本プロレス新潟大会で、ジャイアント馬場対ザ・デストロイヤーの世界ヘビー級王座争奪戦が行われた日なのです。

この世界ヘビー級王座とは、百田家から新団体・全日本プロレスに寄贈された力道山ゆかりのチャンピオン・ベルト。

このベルトを巻くために、馬場は世界の強豪レスラーを相手に十番勝負を行い、その結果により馬場を王者に認定するというものでした。

しかもこの日対戦したデストロイヤーは、力道山、豊登を苦しめた曲者。

馬場とのライバル関係も、日本プロレスから続くものでした。

それに加えなんとデストロイヤーは、この日の試合に負けたら馬場の軍門に下り、日本陣営に就くと宣言したのです。

結果は馬場の快勝で、約束通りデストロイヤーは日本陣営として、馬場の良きパートナーとなってしまいました。

しかしなぜ、デストロイヤーはそんな約束をしたのでしょうか?

とても気になります。

例えば、負けたら覆面を脱ぐとか、全日本マット追放だとかあったはずですが、デストロイヤーが選んだのは日本陣営入り。

憎くてたまらないはずの日本側に就くということは、覆面を剥がされ素顔を晒すことより屈辱的なのでしょうか?

いやいや、もしかするとデストロイヤーは馬場との闘いの中で、憎しみではなく相手の力を認め、友情らしきものが芽生えたのかも知れません。

旗揚げ間もない新団体で、選手層の薄さに苦しむ馬場に、デストロイヤーが助っ人として協力したようにも見えました。

恐怖の足4の字固めを得意とする、白覆面の魔王が味方につくのだから、馬場も日本選手も心強かったに違いありません。

まさに、元祖日米友情タッグ!
ザ・マシンガンズのモデルは、この二人なのかな。

しかし、デストロイヤーが勝っていたら、どうなってたんでしょうね(笑)

そこで、最後に一言!

『パートナー、強けりゃ誰でも、構わない』

また、来週!

 2014年12月12日(金)

  『この日何の日、気になる日 第40回』

皆さま、ボーナスの時期ですね♪

ボーナスの使い道に、困っている方も困ってない方も、はたまたボーナスがなかった方も『この日何の日…』楽しんでくださいませ。

1985年(昭和60年)12月12日は、新日本プロレス仙台・宮城県スポーツセンターで「85IWGPタッグ・リーグ戦」優勝戦が行われた日なのです。

優勝戦では、アントニオ猪木、坂口征二組対藤波辰巳、木村健吾組が激突し、藤波がドラゴン・スープレックス・ホールドで猪木から初フォールを奪い優勝する感動の幕切れでした。

しかし、そんな感動を吹き飛ばす事件が起きていたのです。

それは、優勝戦に出場予定であったブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ組が、この日の試合をボイコットしてしまったのです。

大会前から優勝候補、いやいや優勝確実と言われていたブロディ・スヌーカ組。

下馬評通り順調に優勝戦へ駒を進め、念願の優勝まであと一試合というところでのボイコット。

なぜなんでしょう…。

とても気になります。

単純に考えれば新日本プロレスとのトラブル、契約上金銭的なものなのかマッチメークのことなのか。

しかし、この日の大事な試合をボイコットしてしまえば、今後の契約も今までのギャランティも全て水の泡。

しかし、ブロディにはそんなことは小さなことなのです。

ブロディを見ていると、どうしてもイエス・キリストに見えてしまうのは私だけでしょうか。

いやブロディ自身もキリストを意識しているはずです。

つまりブロディは、巨体で暴れ吠えまくる超獣・キングコングでありながら、神でもあったのです。

神なのだから、金や保証は自分にとっては微々たるものなのです。

前年に人気レスラーが大量離脱し、どん底に落ちた団体を助けに来た、神・ブロディ。

せっかく助けに来たのに、いろいろと注文されたのでは、神として最高の扱いを受けていないと感じたのでしょう。

怒りが頂点に達した神は、この日ボイコットというより、新日本プロレスに決別を宣告したのですね。

両者が揉めた本当の理由は謎ですが、ブロディを神様とまでいかなくとも、もう少し大切にしておけば、事件は起きなかったのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『とんでもねぇ、あたしゃ神様、ブロディだ』

また、来週!

 2014年12月5日(金)

  『この日何の日、気になる日 第39回』

皆さま今年も残り1ヶ月となりましたね。

忘年会などで飲み過ぎないよう、お気をつけくださいませ。

さて今週の『この日何の日…』1993年(平成5年)12月5日は、UWFインターナショナルが、神宮球場にプロレス初進出した日なのです。

メインのカードは、エース・高田延彦とスーパー・ベイダーの世界ヘビー級選手権試合。

結果は、初対決のベイダーに苦戦したものの、高田が王座防衛し46187人の観客は大熱狂したのです。

実はこの神宮決戦に、私マサルは現場で観戦したのであります。

しかも、この神宮大会は屋外での観客動員数新記録を樹立したのですが、なぜこの師走の寒い夜に開催したのでしょうか?

とても気になります。

2年前に旗揚げし、元横綱の北尾光司やゲーリー・オブライトをリングに上げ、新日本プロレスからベイダーを引き抜くなど、話題に事欠かないUインター。

それに加え、団体の最高顧問にルー・テーズやビル・ロビンソン、ダニー・ホッジを招聘。

更にテーズ所縁のベルトを世界ヘビー級王座として復活させるなど、この時期に勢いに乗っていたのは確か。

そんな乗りに乗っている時ならば、真冬の屋外会場であっても、例え雨が降ろうが槍が降ろうが、それこそ寒いぐらいなら、観客は来てくれると判断したのかも知れませんね。

しかし、本当に耐えられないぐらいの寒さでしたよ。
名勝負だったようですが、試合見ないで何杯熱燗飲んだことか(笑)

そこで、最後に一言!

『寒い夜の、外の試合は、記憶なし』

また、来週!

 2014年11月28日(金)

  『この日何の日、気になる日 第38回』

皆さま!先週のプロスタナイト盛り上がりましたね~。

しかし残念ながら、今週の『この日何の日…』は悲しい出来事の報告になってしまいました。

1987年(昭和62年)11月28日は、ハル薗田夫妻が南アフリカ航空295便墜落事故で亡くなってしまった日なのです。

ハル薗田といえば、渕正信、大仁田厚と全日本プロレス若手三羽烏と将来を期待された選手。

海外修行から帰国後は、マスクマン、マジック・ドラゴンとしてジュニア戦線で活躍。

その後、小林邦昭とのマスカラ・コントラ・カベジェラに敗れ素顔になり、試合だけでなく若手のコーチとしても全日本プロレスを支えていた薗田。

しかしなぜ、薗田だけが南アフリカ遠征へ向かったのでしょうか、とても気になります。

南アフリカ地区のブッカーでもあるタイガー・ジェット・シンの要望に応え、ジャイアント馬場が全日本プロレスメンバーの中から薗田を指名したという。

選ばれるにあたり、良い人柄とレスラーとして器用なこともありましたが、薗田はこの年の9月に結婚。

新婚旅行も兼ねた遠征という、馬場の粋な計らいだったようです。

がしかし、馬場の好意も新婚2ヶ月の薗田夫妻には、とても可哀想な結果になってしまいまいました。

武骨な顔に似合わず、優しく面倒見の良かった薗田。
その風貌から誰からもゴリちゃんと愛され、特に馬場からの信頼は絶大だったナイスガイ。

天国で師匠の馬場さんや先輩のジャンボ鶴田、教え子の三沢光晴やサムソン冬木に囲まれて、楽しくやってることでしょうね。

では、最後に一言!

『気は優しくて力持ち、それが男さ、なぁゴリちゃん』

また、来週!

 2014年11月21日(金)

  『この日何の日、気になる日 第37回』

うわ~ん!うわ~ん!皆さ~ん!
本日は「プロレス・スターウォーズ30周年トークイベント」の日ですよ!
急いでお台場に向かいましょう!

と、宣伝はここまでとして、今週も『この日何の日…』いってみましょう!

1974年(昭和49年)11月21日は、国際プロレス大阪大会で、AWA世界王者バーン・ガニアとIWA世界王者マイティ井上がダブル・タイトルマッチを行った日なのです。

結果は引き分けに終わり、両者タイトル防衛に成功。

AWAの帝王ガニアを相手に、当時25歳の若きエース井上には、大善戦以上の闘いだったでしょう。

そんな期待された井上でしたが、残念ながら井上の王者時代は、長くは続きませんでした。
しかし、団体崩壊までタッグ王者になるなど主力レスラーとして活躍。

移籍先の全日本プロレスでの活躍も、期待されていました。

がしかし、全日本マットで井上が選んだのは、ヘビーではなくジュニア戦線というのが気になります。

大男揃いの全日本プロレスの中で、確かに井上はヘビー級にしては小柄すぎます。

得意技のサマーソルト・ドロップも、どちらかと言えばジュニア向き。

それに加え、全日本ジュニア勢の層の薄さもあり、井上はジュニア転向を決意したのかも知れませんね。

ヘビーからジュニアへの辛い減量を乗り越え、昔はヘビー級王者だったというプライドをも捨て、チャンピオンにまでなったとは、さすが井上。

ヘビーで通用しないからジュニアに転向したのではく、適材適所を理解した上で結果を残した井上には頭が下がる思いです。

そこで、最後に一言!

『全日で、花柄タイツよ、もう一度』

また、来場!

 2014年11月14日(金)

  『この日何の日、気になる日 第36回』

大相撲九州場所が盛り上がる中、今週も『この日何の日…』おっぱじめましょう!

1984年(昭和59年)11月14日は、新日本プロレス常連外国人ダイナマイト・キッドとデイビーボーイ・スミスが、全日本プロレス移籍を発表した日なのです。

キッドとスミスといえば、タイガー・マスクや小林邦昭、ザ・コブラなどと名勝負を残し、ジュニアのチャンピオンにまでなった、新日本プロレスにはなくなてはならない存在。

それに加え、二人の海外での活動拠点はWWF。

新日本プロレスと提携しているWWFで活躍しながら、日本ではWWFのライバル団体NWAと提携している全日本プロレスに上がるとは。

キッドとスミスの直線的なファイトと違い、この捻れた契約状態は、気になって仕方ありません。

しかも、新日本の次期シリーズMSGタッグ・リーグ戦に参加を発表しながら、実は全日本の世界最強タッグ決定リーグ戦に参加するという衝撃的な移籍劇。

長州力らジャパン・プロレス勢が新日本プロレス大量離脱し、全日本プロレス登場を果たしたのもこの年。

全日本サイドが、いくら引き抜きではないと言っても、興行戦争という名の新日本潰しが見え見えですね。

そんな政治的なゴタゴタの中で、キッドとスミスも外国人に対して評判の高い全日本プロレス移籍に迷いはなかったのかも知れませんね。

日米での捻れた契約状態も、あの東洋の巨人の一言で解決してたりして(笑)

そこで、最後に一言!

『オレたちの、ファイトはどこでも、変わらない』

また、来週!

 2014年11月7日(金)

  『この日何の日、気になる日 第35回』

皆様、今週も『この日何の日…』お楽しみくださいませ。

ではさっそく、1977年(昭和52年)11月7日は、韓国ソウル市文化体育館でジャイアント馬場&ジャンボ鶴田組が大木金太郎&キム・ドク組による、インターナショナル・タッグ選手権試合が行われた日なのです。

結果は挑戦者チームの大木組が勝ち、馬場組は3度目の防衛に失敗。

大木組は、約1年ぶりの王者返り咲きとなったのです。

馬場と鶴田の全日本プロレス師弟コンビと、大木とドクの韓国師弟コンビとの抗争は、この頃の全日本マットでの名物カード。

馬場と大木、鶴田とドクという組み合わせでのシングル対決も中々好評でした。

特に大木の打倒・馬場の執念は、鬼気迫るものが感じられました。

しかしなぜ、当時母国である韓国を活動拠点としていた大木が、日本に舞い戻り執拗に馬場の首を狙っていたのでしょうか?

とても、気になります。

それもそのはず、大木には馬場に負けられない理由があったのです。

日本プロレスでは馬場の1年先輩の大木でしたが、力道山亡き後のエースの座を馬場に奪われしまい。

馬場が退団後のエースになる大木でしたが、日本プロレスはあえなく崩壊。

大木を含む日本プロレスの残党は、馬場の全日本プロレスに合流しますが、対等合併と思いきや屈辱の吸収合併。

団体の冷遇に耐え兼ね韓国へ帰るも、馬場憎しの思いは深まるばかりでした。

自慢の石頭を武器に、不器用で決して華のあるレスラーではなかった大木。

日本プロレス崩壊時に、フリーになり海外で活躍していた元付き人のドク共に、タッグとはいえ馬場に勝利した大木は感慨深いものがあったことでしょう。

そこで、最後に一言!

『大木さん、心も体も、石頭』

また、来週!

 2014年10月31日(金)

  『この日何の日、気になる日 第34回』

さてさて、今週も『この日何の日…』宜しくお願いします。

1964年(昭和39年)10月31日は、日本プロレス石巻大会で米良明久がデビューした日なのです。

米良明久と聞いてピンと来る人は、中々のプロレス通。

米良はその後、高千穂明久にリングネームを変更するのですが、そこまで聞けばもうお分かりですね。

そーなんですよ川崎さん!米良明久とは、ザ・グレート・カブキのことなんですね。

本名の米良でデビューしたカブキは、この時なんと16歳。

苦しい練習に耐えながら、将来のメイン・エベンターを夢に見ていた米良少年。

しかし、ジャイアント馬場とアントニオ猪木が退団し、エースを失った日本プロレスは崩壊してしまうのです。

日本プロレス解散後、高千穂は全日本プロレスに移籍しますが、日本だけにとどまらず海外へも頻繁に遠征するようになります。

そして、海外活動で観客に受けるレスラーとして、始めたのがペイントであり毒霧。

それが全米で大ブームを巻き起こす、ザ・グレート・カブキの誕生なんですね。

一躍トップレスラーの仲間入りをした高千穂は全日本プロレスにカブキとして逆上陸、見事凱旋を果たすのです。

そこで気になるのが、なぜカブキは日本に戻って来たのでしょうか?

アメリカでトップになったということは、世界に通用するレスラーになったも同然。

歴史も浅く規模もスケールも小さな日本よりは、アメリカの方がやり甲斐も待遇面も遥かに良いはず。

そんなアメリカでの生活を捨て、なぜ日本に舞い戻ったのか?

もしかするとカブキは、自分を育ててくれた日本のファンたちに、恩返しをしたかったのかも知れません。

全米で大活躍する東洋の神秘が日本のリングで大暴れすれば、日本プロレス界は活気づき盛り上がることは間違えないですからね。

日本で生まれアメリカで変身し、大成功した米良少年。

確かに、アメリカの水は合っていたのかも知れませんが、日本を捨てきれない義理人情を忘れていなかったなんて、泣かせる話じゃありませんか。

そこで、最後に一言!

『いつの世も、浪花節だよ、プロレスは』

また、来週!

 2014年10月24日(金)

  『この日何の日、気になる日 第33回』

皆さま、久しぶりの『この日何の日…』宜しくお願いします。

ではさっそく、おっぱじめましょう!

1982年(昭和57年)10月24日 は、全日本プロレス北海道北見大会で、ジャンボ鶴田がハーリー・レイスを破りUNヘビー級王座を奪回した日なのです。

鶴田の代名詞とも呼ばれていたUN王座ですが、この年の8月にレイスに奪われ海外流出。

ジャイアント馬場でも手こずる、ベテランの実力者のレイスからのベルト奪回は難しいと思われてましたが、見事リベンジに成功した鶴田でした。

鶴田の王座奪回でめでたしめでたし…ではなくて、元世界王者であり、ミスター・プロレスの異名をもつレイスがなぜ、UN王座戦線に絡み出したのでしょうか?

全日本プロレスにはUN王座の他に、馬場の持つ看板タイトルPWFと昨年復活した日本の至宝インターナショナル王座が存在します。

その中でUN王座は言ってしまえば3番手的なベルトであるのに、レイスが挑戦するなんて…とても気になります。

NWA世界王座を何度も戴冠し、ミスター・NWA、NWAといえばレイスとまで言われていましたが、この時ベルトはリック・フレアーの腰に巻かれていました。

丸腰になったとはいえ、世界王座ではなくUN王座に的を絞るとは、どうも解せません。

もしかすると、NWA世界王座を若いフレアーに奪われた時に、世代交代を感じ世界王座から一歩退いていたのかも知れません。

無冠とはいえ全日本プロレスに上がるのであれば、何か燃える材料が必要だったのでしょう。

それがUN王座の奪取を皮切りに、PWFとインターナショナル奪取も企んでいたのかも知れません。

鶴田、馬場、ブロディ、ハンセンなど、全日本プロレスでのベルト争いも、世界王座争いに決して負けてませんからね。

そこで、最後に一言!

『レスラーは、ベルト巻かなきゃ、意味がない』

また来週!

 2014年10月3日(金)

  『この日何の日、気になる日 第32回』

どーもどーも『この日何の日…』の時間です。

さて1994年(平成6年)10月3日は、WAR長崎大会で阿修羅・原の引退試合第二戦が行われた日なのです。

原の引退試合はこの日の一戦だけではなく、「阿修羅・原LAST3」と銘打たれ、大分、長崎、東京で開催されました。

中でもこの日の長崎は原の故郷でもあり、カードも盟友・天龍源一郎との一騎討ち。

ある意味ではこれが本当の引退試合と言えるでしょう。

結果は、チョップ、ラリアット、延髄斬り、そしてパワーボムを連発した天龍の快勝。

見事な介錯で原も思い残すことなく、リングに別れを告げたことでしょう。

天龍同盟、龍原砲結成から7年、最後は天龍と闘い完全燃焼し真っ白な灰になりたいと語っていた原。

原のプロレス人生で最も光輝いていたのは、龍原砲時代。

元々は、天龍との対戦を期待していた原だが、いつ組まれるか分からない一騎討ちを待つより、タッグを組み鎬を削った方がより熱く燃えられると結成した龍原砲。

そして最後は望み通り、天龍との激闘で燃え尽きた原。

原にとって天龍はなくてはならない存在、また天龍なしでは原は、ここまで燃えることは出来なかったのかも知れません。

そしてまた、原のプロレス人生は波乱万丈。

ラグビー世界選抜から国際プロレスに入団。
国際プロレス崩壊後に天龍との闘いを求めて全日本プロレスに移籍。

その後、謎の失踪でリングから遠ざかったが、天龍や長州力をターゲットにヒットマンとして復帰。

それから、龍原砲絶頂期に私生活のトラブルを理由に全日本プロレスを解雇。

この件でさすがにレスラー生命を絶たれたと思われましたが、新団体SWSで天龍の尽力によりまさかの復帰。

もう無理だという状態からの、奇跡の復活を一度ならず二度も成功してしまう原。

その復活劇には、いつも天龍の影がついて回ります。
なぜ原のレスラー人生に天龍が必要なのか?

とても、気になります。

敵対し、協力し、レスラーとしての最期を委ねた相手が天龍。

原にとってレスラーになって刺激を受けたのは、BI砲でも天才レスラージャンボ鶴田でもなく、自分と同じ匂いのする天龍だったのかも知れません。

大相撲とラグビーからの転向、プロレスに馴染むことに時間を要したのも事実。

国際プロレスから全日本プロレスに移り、天龍という兄弟分に出会った時から、この日の運命は決まっていたことでしょう。

そこで、最後に一言!

『オレの命(タマ)、源ちゃん以外にゃ、獲らせない』

次回は10月24日になります。

 

 

 

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