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 2014年9月26日(金)

  『この日何の日、気になる日 第31回』

さて今週も『この日何の日…』ハリキっていきましょう。

1995年(平成7年)9月26日は、シューティングの駒沢大会で大日本プロレスのケンドー・ナガサキが、ジーン・フレージャーとバーリトゥード・ルールで対戦した日なのです。

結果はわずか36秒でナガサキのKO負け。

「セメントならナガサキが最強」と言われていただけに、プロレスファンはガッカリしたことでしょう。

よくある論争で、どの格闘技が最強なのか、誰が一番強いのか…。

昔から、最強の格闘技はプロレスと言われていました。

しかし、総合格闘技らの登場で、プロレスラーもフンズリかえっていられなくなったのも事実です。

そこで新興勢力を捩じ伏せるために立ち上がったナガサキは立派です。

だが残念ながら惨敗。

しかも、秒殺…。

なぜ、実力者ナガサキは、ああも簡単に負けてしまったのか?

とても、気になります。

相手をナメていたとも考えにくいし、ナガサキのコンディションも良かったはずです。

もしかするとナガサキは、相手の攻撃を受けてしまうという、プロレスラーの癖が出てしまったのかも知れません。

プロレスとは正反対のバーリトゥードで、技を受けに行けば負けに行くようなものです。

長いキャリアで積み重ねたプロレスでは大切なことが、この日に限って裏目に出るとは、ナガサキ自身も思っていなかったでしょうね。

そしてなんとこの日は、ナガサキ47歳の誕生日だったんですね。

年齢的にも、バーリトゥードはキツかったのかも。

そこで、最後に一言!

『セメントと、バーリトゥードは、別のもの』

また、来週!

 2014年9月19日(金)

  『この日何の日、気になる日 第30回』

さ~て今週もやって参りました『この日何の日…』。

1975年(昭和50年)9月19日は、左膝負傷で1ヶ月間欠場していたアントニオ猪木が復帰した日なのです。

しかも、左膝をかばう目的で、力道山ばりの黒のロングタイツ姿での出場でした。

猪木といえば黒のショートタイツがトレードマーク、新日本風にいえばストロング・スタイル。

そんな猪木がロングタイツを着用するぐらいですから、左膝にはガッチリとサポーターかテーピングが施されていたのかも知れません。

これをきっかけに、そのままロングタイツを続けると思いきや、負傷が完治した猪木は、元のショートタイツに戻ってしまいました。

やっぱり、長年履き慣れたショートタイツの方が、動きやすかったんでしょうね。

動きの激しいプロレスは、何と言っても動きやすさが一番。

なのに、今の選手はロングタイツ率は高いのはなぜでしょう。

とても、気になります。

それは、ファッション性を求めた結果ではないでしょうか。

古くは、ロングもショートも無地の単色ばかりで、よくてもラインが入っている程度。

今の選手にしてみれば、自己アピールするには少し物足りないはずです。

それにどうせデザインを派手にするなら、ショートよりもロングの方が目立ちますからね。

まあ、どんなコスチュームであろうと、強くなきゃダメなんですけどね。

そこで、最後に一言!

『強ければ、タイツはなんでも、構わない』

また、来週!

 2014年9月12日(金)

  『この日何の日、気になる日 第29回』

皆さまコンニチハ、今週もやって参りました『この日何の日…』。

1993年(平成5年)9月12日は、WARの幕張大会で天龍源一郎と新日本プロレスの蝶野正洋が、初の一騎討ちをした日なのです。

前年解散したSWSから、天龍らレボリューションのメンバーが設立したWAR。

設立間もないWARが、プロレス界の台風の目となるべく、ターゲットに定めたのは新日本プロレス。

天龍の目標は、全日本プロレスでライバル関係だった長州力との決着であり、師匠ジャイアント馬場の宿敵アントニオ猪木を倒すこと。

そんな天龍らWARにまず仕掛けたのは、越中詩郎率いる平成維震軍。

この平成維震軍との抗争をきっかけに、天龍は新日本プロレスに乗り込むことに成功。

新日本リングに登場した天龍は、平成維震軍との抗争の他、長州や橋本真也をシングルマッチで撃破。

残るは猪木と思われましたが、すんなりメインディッシュを差し出すほど甘くないのが新日本プロレス。

層の厚い新日本は蝶野も武藤敬司も馳浩も佐々木健介も藤波辰爾も控えているのです。

新日本リングで暴れまくる天龍を倒すことこそ、新日本でトップに立てる条件のようにもなっていただけに、常に首を狙われていた天龍。

WAR対新日本プロレスの熱が冷めぬ間に、本当に猪木との一騎討ちが実現するのか心配されていました。

ところで天龍はなぜ、新日本プロレスとの対抗戦に拘り続けたのでしょうか。

とても、気になります。

全日本リングで不完全燃焼だった長州との決着や、売り出し中の闘魂三銃士と肌を合わせてみたかったのか。

もう1人の龍、藤波の存在だって気になっていたでしょう。

そしてなにより、総帥猪木を倒せば、馬場と猪木という二人のカリスマを倒した唯一の男になる訳です。

プロレス界の天下獲りを目指す天龍にとって、この新日本との対抗戦は、長年の夢を実現させる最後のチャンスであり賭けだったのかも知れませんね。

それに、設立したばかりのWARを軌道に乗せるためにも、この闘いは重要な大花火に違いありません。

そこで、最後に一言!

『天龍は、どこへ行っても、レボリューション』

また、来週!

 2014年9月5日(金)

  『この日何の日、気になる日 第28回』

毎度お馴染みの『この日何の日…』、今週もお楽しみくださいませ。

さて1995年(平成7年)9月5日は、FMW札幌大会で藤原喜明と池田大輔の藤原組師弟コンビが、第8代世界ブラスナックル・タッグ王者になった日なのです。

FMWとはプロレス界に復帰した大仁田厚が旗揚げした、インディープロレス団体。

有刺鉄線や地雷を使ったデスマッチや男女混合のミックスドマッチ、サンボや柔道に空手、キックボクシングを相手にした異種格闘技戦と、プロレスの可能性ギリギリに挑戦したそれこそ何でもアリの団体であり、特にUWFとは正反対の団体。

その対極UWFで活躍した藤原喜明、そんなプロレス的には硬派な藤原組長が、どうしてFMWでチャンピオンになってしまったのか、とても気になります。

藤原組長といえば、「関節技の鬼」や「仕事師」という、サブミッションを匂わすイメージが思い浮かびます。

がしかし、組長はサブミッションが得意だからといって、それだけのレスラーではないのです。

確かにUWFのリングでは、サブミッションは当たり前で目立ちません。

でも、組長のサブミッションは自己流にアレンジした、どの団体のスタイルにも対応出来るものなのです。

新日本プロレスでも全日本プロレスでも、それこそルチャ・リブレでも組長流サブミッションはピタリとハマってしまうのですね。
そんな器用な組長であれば、FMWのスタイルでも、それこそ何でもアリなのだから問題ないはずです。

長州力を襲撃しテロリストとして注目されるまでは、見た目もファイトスタイルも地味なため、長年新日本プロレスの前座に甘んじていた組長。

そんな不遇の時代にも腐らず、道場で黙々と練習を積み重ねた結果、どこにでも通用する独自のスタイルを完成できたのでしょう。

それに、辛く長い下積みを経験してきただけに、リングに上がる喜び、スポットライトを浴びる喜びを誰よりも知っているのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『どこへでも、呼ばれて飛び出て、テロリスト』

また、来週!

 2014年8月29日(金)

  『この日何の日、気になる日 第27回』

皆さま、本日29日の金曜日はキン肉マンの日でありますが、マサルの『この日何の日…』は別物ですので悪しからず。

さて、1985年(昭和60年)8月29日は、スーパー・ストロング・マシン、ヒロ斎藤、高野俊二が新日本プロレスを離脱し、カルガリー・ハリケーンズ結成を発表した日なのです。

カルガリー・ハリケーンズとは、従来の団体的な組織ではなく、プロダクションのような今で言うユニットで、特定の団体に拘らないどこの団体にでも出場することを目的としたチームなんですね。

チーム名の由来は、3人が若手時代に修行したカナダ・カルガリーから取ったもので、カルガリーから来た3人が嵐を巻き起こすという意味のようです。

ハリケーンズが当時存在する団体から、ターゲットに選んだのは長州力率いるジャパン・プロレス。

いやジャパン・プロレスというより、ジャパンが主戦場としていた全日本プロレス。

新日本プロレスは前年に長州らジャパン勢が大量離脱、ライバルの消えたアントニオ猪木や藤波辰巳は、その年に帰国したマシンとの抗争に切り替えていました。

しかし、新日本プロレスの人気は戻ることなく、全日本プロレスにかなりの差を付けられてしまうのです。

ハリケーンズがそんな泥船状態の新日本プロレスから、離れていくのもうなずけます。

がしかし、ハリケーンズはなぜ、長州らと一緒に行動しなかったのでしょうか?
そこが気になるところですね!

長州ら離脱後、マシンは新たな抗争相手に指名され、斎藤はジュニア戦線で実力を試すことを、高野は手薄な正規軍の上位でのポジションを約束されたことでしょう。

そんな若い3人は、自分たちの力で、新日本プロレスの人気を復活させる夢を抱いていたのかも知れません。

そして、新日本プロレスでの夢破れた3人は、カルガリーで見た夢を求めて、新天地へ向かうことを決心したのでしょう。

団体ではなく、どこの団体でも闘うことのできるユニット、カルガリー・ハリケーンズ。

結果的には全日本プロレスにしか出場せず、解散してしまったハリケーンズ。

今でこそ、そんなユニットは当たり前ですが、当時では斬新な試みであり、ファンを期待させたのは確かです。
ただもう少し、結果を出してくれたら良かったんですけどね(笑)

そこで、最後に一言!

『我々が、ショッパイチームで、すみません』

また、来週!

 2014年8月22日(金)

  『この日何の日、気になる日 第26回』

皆さま、お盆休みはいかがでしたか?マサルです

それでは、休み明け一発目の『この日何の日…』いってみましょう!

1985年(昭和60年)8月22日は、ロサンゼルス・オリンピック代表の馳浩がジャパン・プロレスに入門した日なのです。

この時馳は、母校である星稜高校の現役教師でしたが、オリンピック出場後に同校を退職し、大学の先輩でもある長州力率いるジャパン・プロレスに入門することになったのです。

今までのスカウト組、つまりアマチュアで実績を買われての入門者は、現役の学生か実業団の選手ばかり。

馳のような現役教師からレスラー転向は異例中の異例、なぜ馳は教育の道を捨てたのか、とても気になります。

オリンピックという華やかな舞台を経験し、職業としてレスリングに挑戦してみたくなったのか。

それとも、ジャパン・プロレスという新団体で、プロレス界で天下を獲る自信があったからなのか。

いずれにせよ、プロレスは若い時にしか出来ないもの。
頭の良い馳は、教育やプロレスだけでなく、何事も現段階で可能性のあるものに、懸けてみたいという気持ちが強いんですね。

その気持ちに加え、即座に実行に移せる行動力も兼ね備えてるようです。

現在、政治家として活躍している姿を見ると、そう考えてしまうのも仕方ありません。

そこで、最後に一言!

『馳浩、行き着く先は、総理かな』

また、来週!

 2014年8月8日(金)

  『この日何の日、気になる日 第25回』

皆さま、毎度お馴染みの『この日何の日…』のお時間です。

さて、1988年(昭和63年)8月8日は、新日本プロレス横浜文化体育館で藤波辰巳とアントニオ猪木による、IWGPヘビー級選手権試合が行われた日なのです。

この年4月に、藤波が猪木にエース交代、トップ戦線から退くことを迫る事件が勃発、いわゆる飛龍革命がスタートしたのですね。

当時王者であった猪木は、トレーニング中に負傷し、シリーズ欠場、王座返上となってしまいました。

そこで革命の勢いに乗る藤波が王座獲得、猪木をも苦しめたビッグ・バン・ベイダーやライバル長州力を撃破し、新日本プロレスのエースになったと思われました。

ところがプロレスは、いやいや猪木はそんなに甘くはない。

王者藤波への挑戦権を懸けたリーグ戦を勝ち抜き、この日藤波の前に最強の挑戦者として現れたのです。

結果は大熱戦の末60分時間切れのドロー、猪木に勝つまでベルトは腰に巻かないと言っていた藤波の腰に、猪木自らベルトを巻いたシーンはファンの涙を誘いました。

なのにその後の藤波は、なぜかエースの貫禄というか風格が感じられなかったのは、私だけでしょうか。

とても気になります…

藤波は師匠でありIWGPの代名詞である猪木と闘い防衛に成功しても、猪木を倒してないからではないのでしょうか。
タッグマッチでスリーカウントを取ったことがあっても、肝心の一騎討ち、それもタイトルマッチでピンフォール勝ちしなければ、エース交代、革命達成とは言えません。

この日の大一番で王座を守った藤波よりも、60分フルタイム闘い抜き、まだまだ元気な姿を見せた猪木にファンは酔いしれたのかも知れませんね。

それよりも、挑戦者決定リーグ戦で、猪木から完璧なピンフォールを奪った長州の方が、エースらしく見えてしまうのも仕方のない話しですね。

そこで、最後に一言!

『猪木さん、オレがエースじゃ、いやなのか』

また、来週!

 2014年8月1日(金)

  『この日何の日、気になる日 第24回』

皆様、1週間の御無沙汰です。

さて今週の『この日何の日…』1985年(昭和60年)8月1日は、新日本プロレス両国国技館大会で、ザ・コブラ対ドン荒川のNWA世界ジュニアヘビー級選手権試合が行われた日なのです。

結果は王者コブラが原爆固めで勝利し8度目の防衛に成功、NWA&WWFのジュニア二冠王者の貫禄を見せつけました。

スーパー・スターのタイガーマスク引退後のジュニア戦線に、突如現れ瞬く間にトップに登り詰めたコブラ。

そんなコブラのこの頃のライバルは、ヒロ斎藤やブラック・タイガーといったところ。
そこへ割り込むように現れたのが荒川でした。

第一試合か第二試合で、若手や中堅相手に楽しいプロレスで会場を沸かせる荒川が、なぜ急にベルト争いに加わったのか非常に気になります。

前年の長州力らジャパン・プロレス勢大量離脱による、人材不足からのチャンス到来なのか。

それとも、40歳も目前にして、レスラーとして最後の勝負に懸けて見たかったのか。

黒のロングタイツでひょうきんプロレスを得意としていた「前座の力道山」荒川。

ひょうきんプロレスにばかり目がいき、実はガチンコでアントニオ猪木を追い込む実力の持ち主ということは、あまり知られていなかった荒川。

この明るいひょうきん者のシューターに、もっともっと早くチャンスを与えてたら、どうなってたんでしょうか?

藤波辰巳やタイガーマスク、小林邦昭の華々しいベルト姿をどんな気持ちで見ていたのか。

でも、やっぱり優しく人の良さそうな荒川には、ひょうきんプロレスの方が似合ってるよなぁ。

そこで、最後に一言!

『荒川の、ガチンコ試合、見たくない』

また、来週!

 2014年7月25日(金)

  『この日何の日、気になる日 第23回』

こんにちは、マサルです。
今週の『この日何の日…』1995年(平成7年)7月25日は、UWFインターナショナルを退団しフリーとなった山崎一夫が、平成維震軍(新日本プロレス)の横浜大会に参戦した日なのです。

山崎が退団したUWFインターナショナルとは、第二次UWF解散後に高田延彦を社長兼エースとして旗揚げした団体。

格闘技色の強い第二次UWFとは違い、ルー・テーズやビル・ロビンソン、ダニー・ホッジらを顧問に迎え、テーズ所縁のチャンピオンベルトを復活させるなど、プロレス回帰で人気団体に成長。

山崎は高田に次ぐナンバー2のポジションで活躍していましたが、突然退団し古巣である新日本プロレスに活躍の場を求めました。

プロレス界の紳士ともいわれ常識人で有名な山崎の、あまりにも突然の退団にファンやマスコミはただただ驚くばかりで、マサルもとても気になっておりました。

山崎は二番手というポジションである以上、エースの高田よりは条件は悪く、ビッグ・マッチでの敗戦が目立ったのは確か。

しかし、山崎は自分の立場や扱いではなく、団体の方針について行けなくなったのではないのでしょうか。

現金1億円を積んでの派手な記者会見で、何の前触れもなく他団体エースに参戦を呼び掛けたり、無謀とも思われるグレイシー道場への道場破りの失敗など、手段を選ばぬ印象がついてしまったUWFインターナショナル。

話題作りはプロレスには大切かも知れませんが、その強引なやり方に山崎はついて行けないというより、呆れてしまったのでは。

そして、周囲に惑わされることを嫌い、一選手として闘いに専念するための退団になったのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『Uインター、それをやっちゃあ、おしめえよ』

寅さん風で締めてみました
また、来週!

 2014年7月18日(金)

  『この日何の日、気になる日 第22回』

さーて今週もやってまいりました『この日何の日、気になる日…』。

2005年(平成17年)7月18日 は、プロレスリング・ノアが団体2度目となる、東京ドーム大会「Destiny 2005」を開催した日なのです。

新日本プロレスのお家芸とも言われる東京ドーム大会に、2年連続で攻めこんできたノア。

この時期のプロレス不況もあり、ドーム興行は新日本プロレスでもかなり苦戦している状況でした。

そんな中でのノアの東京ドーム進出は、ある意味危険な賭けとも思われました。

がしかし、団体が勢いに乗っていたことや、好カードが揃ったこともあり、超満員62,000人の観客を動員し大成功。

総合格闘技に押されていたプロレス人気の復活や、プロレスの底力を見せつける大会となったのです。

しかし残念ながら、ノアはこの大会を最後に東京ドーム大会から撤退してしまいました。

2年連続の東京ドーム大会の成功、日本のプロレス界の盟主交代とまで騒がれたノアでしたが、ドーム興行には消極的に見えたのは、なぜだったのでしょうか?

とても、気になります。

新日本プロレスもK1もPRIDEも、ドーム興行の成功で飛躍したことは事実です。

興行収益力の高いドーム興行は魅力的ではありますが、六万人を越える観客を動員するには対戦カードと試合内容の充実が求められます。

ただでさえ見やすいとは思えない東京ドームで、毎年成功させることは至難の技。

東京ドームでなくても、日本武道館で年間7回の大会を成功させているノアにとっては、ファンのニーズや選手への負担を考えた興行が適しているとの判断からドーム興行撤退となったのかも知れませんね。

この日の大会名「Destiny(運命)」になぞられた試合が並ぶ中、メインは約5年ぶりの三沢光晴と川田利明の一騎討ち。

長く続いたライバル関係に終止符を打つべく、二人の運命を清算するための大舞台として、東京ドームを三沢が用意したようにも見えました。

そこで、最後に一言!

『運命などと云う一言で、終わらないのが、この二人』

今週は都々逸で決めてみました!
また、来週!

 2014年7月11日(金)

  『この日何の日、気になる日 第21回』

皆様こんにちは、マサルです。

では今週も『この日何の日、気になる日…』1980年(昭和55年)7月11日は、全日本プロレス「サマー・アクション・シリーズ」開幕戦、津島市民会館でプリンス・トンガが日本デビューした日なのです。

プリンス・トンガといえば、元大相撲朝日山部屋の力士、幕下27枚目福ノ島でしたが、部屋の後継者問題で廃業。

その後、全日本プロレスに入門し、レスラー修行のため渡米。

そして、2年8ヶ月に及ぶ武者修行を終え、晴れてこの日に日本デビューとなったのです。

超人的なジャンプ力から繰り出されるドロップ・キックを武器に、日本陣営には頼もしい助っ人的な存在でした。

そしてまた、海外へ出るのですが、前回の修行時代とは違い、AWAやWWFで活躍し、リングネームもプリンスから出世したように「キング・トンガ」や「ハク」、「キング・ハク」と変えていきました。

しかし残念ながら、トンガはこの海外遠征から、日本に戻り定着することはありませんでした。

なぜ全日本プロレスは、トンガを呼び戻さなかったのでしょうか?
とても気になります。

SWS騒動で大勢のレスラーを失った時も、トンガは逆にWWFの選手としてSWS参戦を選んだのです。

レスラーとして生まれ育った全日本プロレスよりも、世界一のプロレス組織であるWWFの方が魅力的だったのか。

それとも、日本のプロレス・スタイルが変わり過ぎてしまったからなのか。

日米レスリング・サミットで、ジャンボ鶴田とのタッグで勝利を飾ったトンガ。
あの日、WWF所属でありながら、全日本プロレスの一員として里帰りできたことを、とても喜んでいたトンガ。

パートナーの鶴田に褒められて、トンガの照れたような笑顔を思いだすと、本当はこのまま日本に留まりたかったのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『プリンスと、言えばトンガか、カメハメか』

また、来週!

 2014年7月4日(金)

  『この日何の日、気になる日 第20回』

今週の『この日何の日…』1992年(平成4年)7月4日は、ジャンボ鶴田が体調不良のため、この日開幕の「サマーアクション・シリーズ」を欠場した日なのです。
鶴田の欠場は7年ぶりであり、シリーズ全休はデビュー以来初めてのこと。

この頃の鶴田は、三冠ヘビー級や世界タッグ争いの最前線に立ち、三沢光晴らの超世代軍の壁となり、外人部隊を迎え撃つ、押しも押されぬ大エース。

年齢的にも体力的にも、脂の乗りきっていた鶴田だけに、この欠場は実に残念であり不思議なものでした。

次のシリーズには復帰を果たしますが、年末恒例の世界最強タッグ決定リーグ戦から長期欠場。
後に判明することですが、鶴田は重い肝炎を患い、レスラー復帰は不可能と噂されてました。

大黒柱を欠いた全日本プロレスは、スタン・ハンセンを中心とした外人勢と成長著しい超世代軍との抗争で乗り切ることとなったのです。

しかしなぜ、全日本プロレスの、いや日本プロレス界の大事な時に鶴田は倒れてしまったか。

気になるというより、悔しくて悲しい気持ちで一杯です。

天龍源一郎らの全日本プロレス退団、SWSへの移籍に伴う大量離脱のときも、鶴田さえいれば全日本プロレスは安泰と言われるほどの大物。

日本人では世界に対抗出来る数少ないプロレスラー鶴田も、病魔には勝つことが出来ませんでした。

もしかするとプロレスの神様が、長年の激闘に疲れた鶴田を休ませると同時に、全日本プロレス内で無理のない世代交代を成功させたかったのかも知れませんね。

そこで、最後に一言!

『善戦マン、真の姿は、スーパーマン』

また、来週!

 

 

 

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